長勝寺は、武家一族の墓寺として誕生しのち、大名家の菩提寺、僧録所、修行道場としての役割を担い、明治大正期の静寂を乗り越え、大戦後広く一般檀信徒を迎えました。
2代続けた予約無しのご案内をやめ、現在、弘前城下という巨大な公園の一角として一部無料開放しております。
以下ホームページ内にて、大まかにご説明して参ります。
皆様との善きご縁をつなぐ一助になるものと願っております。
ごゆっくりどうぞ。
長勝寺四十三世 須藤龍哉 合掌長勝寺は、武家一族の墓寺として誕生しのち、大名家の菩提寺、僧録所、修行道場としての役割を担い、明治大正期の静寂を乗り越え、大戦後広く一般檀信徒を迎えました。
2代続けた予約無しのご案内をやめ、現在、弘前城下という巨大な公園の一角として一部無料開放しております。
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長勝寺四十三世 須藤龍哉 合掌長勝寺は1528(享禄元)年、弘前藩の藩主を務めた津軽家の祖大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、当時居城があった種里(現青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)に建立したことに始まります。
その後、寺は、大浦(現青森県弘前市五代、旧中津軽郡岩木町)を経て堀越(現青森県弘前市堀越)へと、津軽氏の本拠地の移転とともに移り、1611(慶長16)年、弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前に居城を移すとともに現在地に移った、と伝えられています。
津軽家の菩提寺として、禅林街33カ寺の中でも特別な寺として位置づけられており、歴代多くの藩主らが寺の境内に建立された霊廟で眠っています。
長勝寺境内には以下の通り国の重要文化財があります。・本堂 ・庫裏 ・三門 ・御影堂 ・津軽家霊屋(環月臺、碧巌臺、明鏡臺、白雲臺、凌雲臺)・銅鐘
弘前城の南に位置する禅林街は、弘前藩2代藩主津軽信枚が1615(元和元)年、領内の曹洞宗寺院33寺を集めて構築した寺院街。弘前城を防衛するための前線基地のような軍事的性格を持つもので、現在も残る土塁を含め長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)と呼ばれ1952(昭和27)年、国の史跡に指定されています。江戸時代初期の、同一宗派33もの寺による寺院街建設は、全国でも例がない、といわれています。
この一直線の禅林街の一番奥、突き当りに位置しているのが長勝寺です。
長勝寺は津軽家の菩提寺として長い歴史を持っており、歴代多くの藩主らが寺の境内に建立された霊廟で眠っています。また、寺の境内には国の重要文化財、青森県重宝など多数あります。ここでは、国の重要文化財、青森県重宝を中心に“寺のお宝”を紹介します。
寛永6(1629)年に弘前藩2代藩主信枚によって建立された三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造とち葺としている。高さが16.2mもある壮大なものである。下層の花頭窓の漆塗り部分のほかは素木造であり、これがかえって雄渾さを感じさせている。
数回の修理を受けていたが、文化6(1809)年に大修理が行われ、花頭窓のほかに仁王像を置くなどして、形式上の変更がなされたものであることが確認されている。
上層の軒は二軒繁垂木であり、これを支える組物は腰組と同様の禅宗様三手先の詰組とし、上層の縁には高欄が回り、逆蓮柱の親柱が立っているなど、禅宗様の手法を基本としているようである。また、岩木山神社の楼門と同じように、すべての柱について、下から上までの通し柱とする特殊な構造を示しているが、江戸時代前期の重要な建築遺構の一つである。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
寛永6(1629)年建立の長勝寺三門楼上に羅漢像とともに安置されている、寄木造り箱仕上げの等身如来立像。寺伝では寛永5年に京都から移したとするが、おそらく そのころ京都で制作されたものであろう。右手は施無畏印につり、左手を欠失していたが、近年薬壷を持たない左手が発見されたために、これまでの薬師如来の名称から 阿弥陀如来と呼ぶべきとされている。しかしこうした禅宗寺院の三門楼上にふさわしい像を求めたとするならば、釈迦如来である可能性が強い。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
寛永6(1629)年建立の長勝寺三門楼上(2階)に8体の羅漢像が安置されている。薬師如来三門本尊を中央にして、如来の右側に4体、左側に4体。なかなかユーモラスな表情をしている羅漢像だ。羅漢像が長勝寺三門楼上に設置されたのは1678(延宝6)年とされる。
寛永6(1629)年の建立以来、長勝寺三門は数回の修理を受けたが、文化6(1809)年には大修理が行われ、花頭窓のほかに左右一対の仁王像が置かれた。仁王像の裏には「文化6(1809)年」の銘板がはめ込まれている。銘板には「京都室町住 三十一世法眼七條左京康朝作」と刻まれている。
京都仏師の中でも、運慶の系譜を引く七条左京家が頂点に位置する。康朝(1759~1818年)は七条左京棟梁家の31代。比叡山諸像の修復のほか、寛政9(1797)年に秋田・天徳寺の仁王像、文化6(1809)年に長勝寺の仁王像、文化14(1817)年には山形・龍泉寺十六羅漢像などを制作している。
本堂は規模が大きく、側廻りには3本溝の窓を配しており、船肘木で一軒の垂木を受けているが、当初は、庫裏と同様の茅葺きであったようである。内部では、以前は土縁であったといい、中央に両折戸をつって欄間を設け、間仕切りは1間ごとに柱が立ち、2本溝の仕切りを置くが、鴨居には付樋端が打たれている。仏間は板敷きとなり、来迎柱を立てるが、当初は背面壁に祭壇が取り付けられていた痕跡もみられる。
曹洞宗の本堂建築としては、典型的な構成を示し全国的にも最古に属するものである。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
庫裏は、大浦城の台所として建てられたものを、ここに移したものと伝えているが、柱の太さや風触の度合いや痕跡の調査などからすると、古い柱材などを使用しながら、この場所で新たに建築されたものとみることができそうである。
(上記は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
庫裏の半解体修理工事が2009~2012(平成21~24)年に行われ、この工事中に杉材の木製銘板(長さ82.4cm、幅16.4cm、厚さ1.5cm)が発見された。それにより、庫裏が1794(寛政6)年に建て直されたことが判明した。
弘前藩初代為信の木彫を安置するために造られた堂で、寛永6(1629)年の為信の二十三回忌法要に合わせて2代藩主信枚が建造したものと考えられ、文化2(1805)年に大規模な修理が行われている。三間四方で宝形造銅板葺の屋根を載せている。
御影堂は、三門と同じ寛永6(1629)年の創建と伝えられているが、後の文化2(1805)年には、その位置を本堂の中心部の真後ろに移し、さらに、その正面を南から東へ変えるという大改造がなされ、全面的な彩色工事もなされた。御影堂は、その南に連なって配された「津軽家霊屋」と一体となり、藩の先祖たちを祀るためのものとして、重要であった。
内部の厨子は1間の建築型厨子で、入母屋造木瓦葺の屋根を載せており、二軒繁垂木を禅宗様三手先詰組の組物で受けている。漆塗りの極彩色であり、各部に金箔や金泥が多用されていて、実に華麗な造作が施されている。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
慶長11(1606)年、津軽為信が上京中自ら都の仏師に造らせたものとする伝承がある。桃山時代には絵画を中心に肖像の制作が頻繁で、ことに戦国大名やその夫人の死没直後に追善のため遺像として制作されることが多かった。為信も在京中の慶長12(1607)年に亡くなっていることから、本像の制作事情もいろいろ推測される。
木造彩色で衣冠束帯に正した姿は定型的表現のうらみはあるものの絵画の為信像と共通する風貌を伝えている。
なお、本像を納める厨子は、寛永6(1629)年に2代信枚が造らせたもので、漆塗に極彩色の華やかな装飾がいかにも藩祖像にふさわしい。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
長勝寺境内に、弘前藩歴代の藩主やその奥方の霊屋が、初代為信の御影堂より南へほぼ一直線に5棟並んで建っている。
建築年代の古い順にみると、環月臺は初代為信室の霊屋で、初め寛永5(1628)年に建立されたが寛文12(1672)年に再建されている。碧巌臺は2代藩主信枚の霊屋で寛永8(1631)年に、明鏡臺は2代信枚室のもので寛永15(1638)年に建立されたものである。
白雲臺は3代藩主信義の霊屋で明暦2(1656)年に、凌雲臺は6代藩主信著のもので宝暦3(1753)年に建立されている。
5棟とも素木造で、正面1間・側面2間・背面2間で、入母屋造の妻入として柿葺の屋根である。
内部は板床で天井は鏡天井とし、周囲の壁には板卒塔婆を巡らし、中央に石造無縫塔を安置している。その天井に白雲臺では「天人」が、他の4棟には「龍」が極彩色で描かれている。
5棟とも霊屋の前面に門を構え、そこから玉垣を回してそれぞれが独立した形で建ち並んでいる。ともに同様の規模でありながら、細部の様式がそれぞれに異なり、その時代的変化をみることができるのも興味深い。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
津軽家霊屋の向かいに、五輪塔が集められている個所がある。ここには4代藩主津軽信政、5代藩主津軽信寿、津軽信寿の嫡男津軽信興、7代藩主津軽信寧、8代藩主津軽信明、9代藩主津軽寧親、10代藩主津軽信順、11代藩主津軽順承、津軽順承の婿養子津軽承祜が葬られている。
この鐘は、元藤崎満蔵寺(弘前市西茂森町万蔵寺の前身、元臨済宗)の鐘であったものを、慶長の頃弘前藩の命により長勝寺構に移し、曹洞宗に改め、親寺の長勝寺に釣ったものである。
銘にある崇演は北条貞時の法名で、寄附した人達は当時の豪族達であろう。そのなかの源光氏は弘前市中別所の板碑にある銘と同じである。板碑は正応元(1288)年、鐘は嘉元4(1306)年で18年の隔たりがあるだけであるから同一人でこの辺(元高杉郷)の領主であった。
藤崎付近には北条氏の領地があり、銘文中の安倍季盛は当時の藤崎城主とみられる。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
三尊仏は、津軽為信が慶長8(1603)年に岩木山百沢寺大堂の本尊として祭ったものと伝えられ、三体とも寄木造り、胡粉箔仕上げの桃山時代の作とみられる。
厨子堂は岩木山百沢寺大堂の内陣に置かれていた建築型厨子であり、寛永15(1638)年ころに造営された。大型の1間厨子で、入母屋造の木瓦葺である。いたるところに龍や松の彫刻を彫り、漆を塗り、金箔を押し、極彩色の文様を描いており、現在は「華御堂」と呼ばれている。
豪華華麗ではあるが、落ちついた配色で、見る者を感動させるものがあり、江戸時代初期の特徴をよく示している秀作である。
明治初期に長勝寺境内の蒼龍窟に移されたものである。
(この記事は、許可を得て、青森県庁のホームページから転載しました)
津軽為信は1603(慶長8)年、三尊仏を岩木山百沢寺大堂(現岩木山神社)の本尊として奉った、と伝えられている。さらに二代津軽信枚は、百沢寺に五百羅漢を寄進した。明治時代初期、神仏分離令により、五百羅漢は三尊仏や十六羅漢とともに、百沢寺から現在の長勝寺蒼龍窟内に移動安置された。五百羅漢は、三尊仏と逗子の左右に約100体が、さらに棚の上に十六羅漢が安置されている。五百羅漢、十六羅漢とも表情や仕草はみんな違っており魅力的。ユーモラスなものもあり、見ていて飽きない。
いわゆる悟りをひらくことを「阿羅漢(あらかん)の境地に至る」などと表現する。 釈迦の死後、まもなく第一結集が開かれた。阿羅漢に達した約500名の比丘たちが集まり教えの編集会議が開かれたのである。 このエピソードより後年「五百羅漢を奉る信仰」となった。
黒門は外枡形、土居、濠跡及び曹洞宗寺院群とともに史跡弘前城跡長勝寺構を構成する重要な遺構の一つであり長勝寺三門杉並木等とあいまって西茂森禅林街の歴史的好環境をつくりだしている。
現位置における記録上の所見は貞享4(1687)年作成「長勝寺耕春院惣構」に図に見られ、それは長勝寺境内入口を示す総門(表門)としての機能を有していたものである。
なおこの門が城郭建築にみられる高麗門形式となっているのは長勝寺一帯が弘前城の出城として性格付けられていたことによるものであろう。本城(現在の弘前公園)にない高麗門形式が出城としても長勝寺構に現存することは誠に興味深いことであるが建造当初からの形式によったかどうかは定かでない。
(この記事は、黒門前の説明板から書き写しました)
長勝寺は津軽家と関係の方々、そして多くの檀信徒様方にて護持しているお寺です。御朱印など観光対応は喜んで致しますが、参拝や観光の方々をことさらに「お客様」扱い致しません事を何卒ご了承下さいませ。「ご参拝の皆様」を歓迎申し上げます。
入館料は頂きません。中門、そして三門をくぐりますと正面に玄関の無い本堂、右手に茅葺きの庫裡、左手に蒼龍窟が、左手奥には黒塀の向こうに霊屋が見えます。庫裡に入ると受付があり御朱印等承ります。そこから左手に土間づたいに土足で本堂まで参拝出来ます。庫裡と蒼龍窟は午前9時から午後4時まで開けています。
通常のご参拝はここまでとなりますが、さらに靴を脱いで本堂、御影堂、または霊屋までご参拝(案内付きとなります)されたい方は事前予約が必要となります。お申し込みは、弘前観光コンベンション協会(電話0172-35-3131)へ。
常時、檀信徒の募集を致しております。
ご希望の方はお気軽にご連絡下さいませ。
その際に、ご希望お伺い、また詳細をご説明申し上げます。
長勝寺 電話 0172-32-0813
長勝寺の植物相は、非常に興味深いものがあります。檀家墓地など公開されている区域は、帰化植物など市街地によく生えている植物が多く見られます。一方、公開されていない区域には、里山や低山地で見られる植物が多く生えています。非公開区域は、弘前藩主らの御霊屋などがあることから、土砂の移動はあまりなく、江戸時代からの植生を今に残している可能性がある、と考えます。悠久のときを超えて江戸時代と同じような野草が生えているとすれば、なんとロマンに満ちあふれていることでしょうか。
野草の写真撮影と野草の解説文は、長勝寺檀家の村上義千代が担当しました。
長勝寺に向って右手を見ますと禅林広場があり、その奥に高さ約26mの忠霊塔が建ってます。塔の管理母体は宗教法人弘前仏舎利塔で、宗教法人長勝寺とは別の法人ですが、縁あって長勝寺住職の須藤龍哉が代表を務めています。
忠霊塔は、戦争で亡くなられた青森県人らを悼むため、当時の弘前市長を会長とする「弘前忠霊顕彰会」が中心となって昭和16年7月に着工し、昭和20年11月に完成。戦没者計2049名の骨壷が納められました。
しかし、進駐軍GHQの指導があり、公的な法要が出来ない状況になりました。このため昭和23年、仏舎利(お釈迦様の遺骨)を迎え、のちに宗教法人「弘前仏舎利塔」が発足。昭和31年には三蔵法師の遺骨もお迎えし現在に至っています。
これまでの長い年月、紆余曲折がありましたが、令和5年7月23日新たに「弘前忠霊塔を守る会」(会長・長勝寺住職須藤龍哉)を設立し、この忠霊塔を永続的に慰霊護持しよう、と日々努めております。
「弘前忠霊塔を守る会」の事務所を長勝寺に置き、お問い合わせ、ご寄付、ご入会を広く受け付けております。
連絡先は、 〒036-8273 青森県弘前市西茂森1-23-8 長勝寺内。電話 0172-32-0813